江戸城の門めぐり!知られざる歴史と秘密

江戸城の門めぐり

東京の中心に位置する皇居、かつての江戸城。その威風堂々とした姿は、今なお多くの人々を魅了し続けています。しかし、皇居を囲む11の門には、それぞれに興味深い歴史や秘密が隠されているのをご存知でしょうか?今回は、江戸城の門にまつわる知られざる物語をご紹介します。時代を超えて受け継がれてきた江戸の魂に、一緒に触れてみましょう。


江戸城の門の概要と特徴

江戸城の門の数と配置

江戸城には11の門があり、時計回りに北から「乾門」、「北桔橋門」、「平川門」、「大手門」、「桔梗門」、 「坂下門」、「皇居正門」、「桜田門」、「半蔵門」、「田安門」、「清水門 」、と配置されています。これらの門は、江戸時代から現代に至るまで、東京の中心部を守り続けてきました。

各門の役割と重要性

江戸城の門は、単なる出入り口以上の役割を果たしていました。例えば、「大手門」は江戸城の正門として、将軍や大名が出入りする際に使用されました。一方、「桜田門」は、幕末の桜田門外の変で有名になった門です。各門には、その位置や用途に応じて、異なる重要性が与えられていたのです。

江戸城の門にまつわる興味深い逸話

「乾門(いぬいもん)」の由来と特徴

乾門は江戸時代には存在せず、明治時代に新たに作られた門です。1888年の明治宮殿造営の際、元々坂下門の内側にあった「西の丸裏門」を現在の場所に移設し、黒の薬医門形式に改築されました。皇居から見て乾(いぬい)の方角にあることから、この名前が付けられました。通常は厳重に警備されていますが、新年一般参賀などの皇居公開時には出口として使用され、間近で見学できる貴重な機会となります。

「北桔橋門(きたはねばしもん)」の歴史的重要性

北桔橋門は本丸へ北から入る門で、太田道灌時代には城の正面に位置していました。江戸時代には高麗門(第一門)と渡櫓門(第二門)による桝形形式の城門を構成し、本丸大奥から外部に直接通じる重要な門でした。その重要性から、濠を深くし、石垣を最も堅固雄大にしていました。また、橋ははね上げる仕掛けになっており、有事の際には外部への逃げ道や交通遮断の機能を果たしました。


「平川門(ひらかわもん)」にまつわる春日局の逸話

平川門には、徳川家光の乳母である春日局にまつわる興味深い逸話が残されています。ある日、春日局が何らかの理由で入門時刻に遅れてしまい、門外で野宿させられたという話があります。この逸話は、江戸城の厳格な規律と、当時の身分社会の厳しさを物語っています。 以前は、門の前には、門の由来になった平川村がありました。 高麗門(第一門)、渡櫓門(第二門)、木橋(城門形式一式)が、昔のまま残っているのはこの門 だけだそうです。 この門は別名、不浄門とも言われ、罪人や遺体はここから出されたそうです。


「大手門(おおてもん)」の威厳と役割

大手門は江戸城の正門で、将軍や大名が出入りする格式高い門でした。その構造は高麗門と渡櫓門の二重構造で、防御力が非常に高かったとされています。慶長12年(1607年)に藤堂高虎によって完成し、元和6年(1620年)には伊達政宗らの協力で現在の桝形形式に改修されました。大手門は幾度かの災害を経て再建され、昭和20年の戦災後に復元工事が行われました。現在もその威厳ある姿を保ち、皇居東御苑の入口として訪問者を迎えています。


「桔梗門(ききょうもん)」の名前の由来と道灌の逸話

桔梗門の名前の由来には諸説あり、太田道灌の桔梗紋説や帰郷、吉祥、吉慶説があります。道灌時代、この辺りには泊船亭があり、江戸城内の絶景を望む三つの軒(静勝軒、泊船軒、含雪軒)が設けられていました。現在は皇居参拝者や勤労奉仕の人々が出入りする門として使用されています。道灌は長禄元年(1457年)に江戸城を築城し、城内に絶景を望む三つの軒を設けたという興味深い逸話が残っています。

「坂下門(さかしたもん)」と歴史を変えた事件

坂下門は現在宮内庁の通用門ですが、1862年1月に重要な歴史的事件の舞台となりました。「坂下門外の変」と呼ばれるこの事件で、老中安藤対馬守が水戸浪士6人に襲撃されました。安藤は公武合体政策を推進し、将軍家茂と皇妹和宮の婚姻を実現させたことで尊皇攘夷派の反感を買っていました。この襲撃により安藤は負傷し失脚、幕末の政局に大きな影響を与えました。

「皇居正門(こうきょせいもん)」の変遷と二重橋の誤解

皇居正門は元々「西の丸大手門」と呼ばれていましたが、1888年の明治宮殿造営時に名称が変更されました。正門前の「石橋」は、一般に「二重橋」と誤解されていますが、正式名称は「皇居正門石橋」です。この石橋は明治20年に木橋から美しい石造二連アーチ橋に架け替えられ、現在では東京の象徴的な景観となっています。

「桜田門(さくらだもん)」と歴史を変えた事件

桜田門は、1860年3月3日に発生した「桜田門外の変」で有名です。この事件で、大老井伊直弼が水戸藩と薩摩藩の浪士に襲撃され、暗殺されました。この出来事は幕末の政局に大きな影響を与え、明治維新への道を開く一因となりました。桜田門は1636年に徳川家康が入府際に修築され、二重構造の城門で、広い枡形を持ちます。関東大震災で破損し、その後改修され、現在では「桜田門」はその目前にある「警視庁」の代名詞にもなっています。 昭和36年、国の重要文化財に指定されました。

「半蔵門(はんぞうもん)」と徳川家康の関係

「半蔵門」の名前は、徳川家康の側近であった服部半蔵正成にちなんで付けられました。服部半蔵は忍者集団を率いる立場にあり、この門の警備を任されていたと言われています。また寛永江戸図には麹町口、延宝江戸図には麹町御門と記されていて、将軍が 江戸城を脱出しなければならない、急な事態が発生した場合は甲州街道から甲府へと脱出する緊急事態用の門でもあったようです。その頃の甲州街道の起点は日本橋ではなく、この半蔵門だったそうです。現在でも、首相官邸や国会議事堂がある永田町エリアを「半蔵門」と呼ぶことがあるのは、この歴史に由来しています。

「田安門(たやすもん)」と徳川御三家

田安門は、徳川御三卿の一つである田安家の専用門として使用されていました。江戸城北部に位置し、桝形形式の門で、寛永13年(1636年)に再建されました。門釣金具には建立年が刻まれており、現存する城門の中で最古のものです。田安家は御三家に次ぐ格式を持ち、幕府の重要な役割を担っていました。御三卿(田安・一橋・清水)の名は、それぞれの屋敷が江戸城の各門内にあったことに由来します。田安門は田安家の権威と地位を象徴する存在でした。また、門前の常灯明台は靖国神社の献灯と東京湾入港船の目標として機能していました。御三家(紀州・尾張・水戸)に次ぐ家柄格式を持っていた徳川家御三卿(清水・一橋・田安)の家名は、彼らの屋敷が江戸城の田安門・一橋門・清水門内に あった事から命名されたそうです。

「清水門(しみずもん)」の名前の由来

清水門は、近くに良質な水が湧き出る井戸があったことから名付けられました。この水は江戸時代に将軍家の飲料水として使用されていたとされています。寛永元年(1624年)に浅野長晟によって建てられた枡形形式の門で、破風(屋根の切妻にある合掌形の装飾板)には青海波(せいかいは・雅楽、青海波の舞曲に用いる服の波形の染め模様)が刻まれています。江戸城天守閣と同じ作りで、鯱には葵の門があります。清水門は国の重要文化財に指定されており、清水徳川家の名前の由来にもなっています。清水門、田安門とも江戸城の遺構として責重なため昭和36年6月に国の重要文化財に指定されています。

まとめ

江戸城の門は、単なる建造物以上の存在です。各門には、江戸時代から現代に至るまでの歴史や文化が凝縮されています。「清水門」の清らかな水、「半蔵門」にまつわる忍者の話など、一つ一つの門に秘められた物語は、東京の奥深さを物語っています。皇居を訪れる際は、これらの門の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。江戸の魂が息づく門々が、きっと新たな発見をもたらしてくれるはずです。

江戸城 門 地図

江戸城の門めぐり

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。