江戸時代、目黒が六カ村に分かれていたころ、現在の駒沢通り辺りから駒場に至る広い地域は、上目黒村と呼ばれていました。「別所」は、この上目黒村の字名の一つで、現在の青葉台一丁目、上目黒一丁目、中目黒一丁目にあたる一帯が、その地域。
(注:字名(あざめい)というのは、市区町村の後につく地域名称で、番地の前の部分。大字、字、小字の3種類あります)
別所台や鎗ヶ崎と呼ばれる渋谷区境の高台から、目黒川の谷へ下る険しい傾斜地で、眺望が良い処から、古くは要塞として、江戸時代以降は富士のながめのよい景勝の地として知られてきました。
特に、麻布辺りから、この地を通って行楽地目黒に入る二本の街道沿いに築かれた富士塚は人気がありました。
「新富士」「元富士(別所富士)」は、広重の浮世絵にも描かれており、江戸名所として見物人や参詣人が絶えなかった場所としても名の知れた場所でした。
さて、「別所」という地名は日本各地にありますが、一般に、昔からの集落である本村(もとむら)に対して、別所は、追加開墾を許された土地を意味する地名といわれております。
また、これから派生した意味で「行き詰まりの場所」を指すとも言われています。
目黒の「別所」も、上目黒村の本村の川向こうにある険しいな傾斜地であったところから、遅れて開墾された、「行き詰まり」の地だったようです。
現在の上目黒一丁目の目切坂上に築かれた「元富士」は、土地の名を採って「別所富士」とも呼ばれています。一方、旧三田村字鎗ヶ崎の高台にあった「新富士」の下から中目黒一丁目・二丁目の境を目黒川へ下る、折れ曲がった長い急坂は、「別所という土地へ下る坂」という意味から、「別所坂」と名付けられています。