がま池とは、港区元麻布2-7-9にある200坪ほどの池の事です。
江戸時代後期(文政年間)、このあたりに備中成羽(今の岡山県西部)領主山崎主税助治正という、五千石の旗本の屋敷がありました。
ある日の深夜、池の主の大がまが見廻りをしていた奉公人を池に引きずり込んで殺してしまうという事件が起きました。
主人の主税助は大事な奉公人を殺された事に大いに腹を立て、池の水を掻い出して大がまを退治しようとしたそうです。
しかし、主税助がその晩寝床につくと、枕元に仙人のような老人が現れ
「我は永年池に住むがまであるが、あの奉公人は蛙が生まれる度に殺してしまうので仕方なく子の仇をとったのである。
だからどうか池の水を掻い出すのは止めて頂きたい。
もし願いを聞いてくれるならば以後このような事は二度 としない。
そして、当家に火難が降りかかった時は、我の神通力をもって必ず屋敷を守るであろう。」と告げました。
主税助は夢から覚めると今の夢を半信半疑ながら、大がま退治を中止することに決めたそうです。
しばらくたった文政4年(1821)7月2日、麻布古川より始まった大火により、この辺り一帯も猛火に包まれ、この屋敷にも火が廻ろうとした時、池から大きながまが現れて池の水を巻き上げ屋敷一面に吹き付けました。
これによって付近は総て焼失したにもかかわらず、山崎家の屋敷だけは難を のがれました。
この噂が世間に広まり、主税助は「上」と書かれた防火のお札(後には火傷のお札)を、側用人であった清水家に作らせ「上(じょう)の字様」と呼ぶと、国中から注文が殺到したようです。
屋敷は明治になると渡辺国武(大蔵大臣)の所有になりましたが、お札の販売権?は清水家が継続して任されました。
清水家は維新後に東町に住む事になったために、本来お札はがま池の水を 八月の決まった日に汲み、それを種に「上」の字を書くのですが、その池が他家の所有となって使用出来なくなってしまった為に、家の近所の井戸水を使用 したそうです。
また清水家の御子息は帝大を卒業し銀行の幹部となりましたが、若くして亡くなりました。
その後昭和に入り、末広神社(現麻布十番稲荷・港区麻布十番1丁目)が授与するようになり、「蛙の御守」として現在も続いているそうです。
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