大正デモクラシー(民主主義的、自由主義的な潮流)の波は国民の根本である教育にも及びました。
義務とされてきた教育を権利としてとらえ直す考えが生まれ、画一的な教育を批判し、子供の個性を尊重する教育がはじまりました。
千葉師範附属小学校をへて大多喜中学校の校長となった手塚岸衛(てづかきしえ)は、「自由教育論」を唱え、「子ども自らが自らの力を出して自己を開拓して進む力をつけてやるのが教育である」と、試験や通知表の廃止、自由学習時間の特設など画期的な自由教育を試みました。
しかし、その教育方法により上級学校受験生が全員不合格になったり、現代の校内暴力を彷彿とさせる事件がおきたりし、手塚氏は責任をとって辞職。
再度「自由教育」を実践するべく1927年(昭和2年)「自由ヶ丘学園」を創設します。
同年、東横線が開通し、駅は「九品仏」駅として誕生します。
1929年10月(昭和4年)大井町線が開通。
隣の住民からの申し出で「九品仏」の駅名を返却「自由ヶ丘」と改称されました。
(九品仏駅の利用者は「自由ヶ丘学園」の生徒が大半であったそうです)
その後も手塚氏は教育に没頭していきますが、資金繰りの困難さに加えて、生徒管理の難しさに失意のうちに病没してしまったそうです。
その手塚氏の教育に対する信念は、「自由ヶ丘学園高等学校」(自由が丘2-21-1)として、しっかり受け継がれています。
昭和40年、駅名の「自由ヶ丘」の「ヶ」が「が」に変わり地名も現在の自由が丘に変更されました。
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