文豪宮沢賢治が残した東京の足跡

宮沢賢治が残した東京の足跡
岩手県が生んだ文豪、宮沢賢治。その名を聞けば、多くの人が「銀河鉄道の夜」や「雨ニモマケズ」を思い浮かべるでしょう。しかし、宮沢賢治と東京との意外な縁をご存知でしょうか?実は、彼の人生の重要な節目に東京が深く関わっていたのです。今回は、宮沢賢治の知られざる東京での足跡を辿ってみましょう。

宮沢賢治の東京滞在

突然の上京

1921年1月23日、25歳の宮沢賢治は家出同然で東京へ向かいました。父親との宗教観の違いから、法華経への入信を説得するために布教の腕を磨こうと決意したのです。準備もほとんどしないまま、夜行列車で上野駅に降り立った宮沢賢治は、法華経の団体である国柱会を訪ねます。しかし、住み込みでの勤務は叶わず、本郷區菊坂75番地(現在の本郷4-35-4付近)に住まいを見つけることになりました。

東京での生活と活動

宮沢賢治の東京滞在は約7ヶ月間と推定されています。この間、宮沢賢治は東大赤門前の文信社という印刷所で働いていたようです。また、ドイツ語の学習にも励み、神田の東京独逸学院に通っていました。当時の宮沢賢治の心境を垣間見る歌が残されています。「ぎこちなる独文典もきり降ればなつかしさあり八月のそら」この歌からは、慣れない東京での生活と学びへの思いが伝わってきます。

宮沢賢治ゆかりの東京の地

神保町周辺

宮沢賢治が滞在していた神保町周辺には、彼ゆかりの場所が多く残されています。例えば、「神田日活館」(映画館)、宮沢賢治が使用した星座早見盤を購入した「三省堂」(書店)、本の交換を願って手紙を書いた「岩波書店」などがこの界隈に位置していました。現在でも古書店街として知られる神保町の街並みは、賢治の足跡を想像させてくれます。

八幡館での最後の滞在

宮沢賢治の最後の東京滞在は、1931年9月20日のことでした。東北砕石工場の技師として石灰の売り込みのために上京した宮沢賢治は、南甲賀町12(現在の神田駿河台1丁目付近)にあった旅人宿「八幡館」に宿泊しました。しかし、この滞在中に宮沢賢治は高熱に見舞われ、寝たきりになってしまいます。既に結核を患っていた宮沢賢治は、この時遺書まで書いたといいます。

宮沢賢治と東京の意外な縁

東京での創作活動

東京滞在中、宮沢賢治は創作活動も続けていました。特に、ドイツ語学習の影響を受けた作品や、都会の風景を描いた詩などが残されています。例えば、「独乙語の講習会に四日来て又見えざりし支那の学生」という歌は、当時の国際色豊かな東京の様子を伝えています。

東京が残した影響

宮沢賢治にとって東京での経験は、その後の創作活動に大きな影響を与えたと考えられています。都会と地方の対比、近代化と伝統の葛藤など、宮沢賢治の作品に見られるテーマの多くは、東京での体験が基になっているのかもしれません。現在、宮沢賢治ゆかりの地とされる八幡館があった場所には、カザルスホールが建っています。時代は変わっても、文化の発信地としての東京の姿は、宮沢賢治の時代から変わらず続いているのです。



宮沢賢治が残した東京の足跡

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