目次
宮沢賢治の東京滞在
突然の上京
1921年1月23日、25歳の宮沢賢治は家出同然で東京へ向かいました。父親との宗教観の違いから、法華経への入信を説得するために布教の腕を磨こうと決意したのです。準備もほとんどしないまま、夜行列車で上野駅に降り立った宮沢賢治は、法華経の団体である国柱会を訪ねます。しかし、住み込みでの勤務は叶わず、本郷區菊坂75番地(現在の本郷4-35-4付近)に住まいを見つけることになりました。宮沢賢治旧居跡。
— ナギノート (@naginote_tokyo) October 28, 2024
稲垣家に下宿していました。
当時は駄菓子屋でその2階に住み、東大赤門前の文信社で仕事をし、鶯谷駅前などで法華経を布教する生活をします。
やがて、街頭布教から、法華文学として童話の創作に力を入れるようになり、1日に原稿用紙300枚のペースで書きました。 pic.twitter.com/iH1bk0Hyoe
東京での生活と活動
宮沢賢治の東京滞在は約7ヶ月間と推定されています。この間、宮沢賢治は東大赤門前の文信社という印刷所で働いていたようです。また、ドイツ語の学習にも励み、神田の東京独逸学院に通っていました。当時の宮沢賢治の心境を垣間見る歌が残されています。「ぎこちなる独文典もきり降ればなつかしさあり八月のそら」この歌からは、慣れない東京での生活と学びへの思いが伝わってきます。宮沢賢治ゆかりの東京の地
神保町周辺
宮沢賢治が滞在していた神保町周辺には、彼ゆかりの場所が多く残されています。例えば、「神田日活館」(映画館)、宮沢賢治が使用した星座早見盤を購入した「三省堂」(書店)、本の交換を願って手紙を書いた「岩波書店」などがこの界隈に位置していました。現在でも古書店街として知られる神保町の街並みは、賢治の足跡を想像させてくれます。【神保町の街角】
— 東方書店 東京店(神田神保町) (@toho_jimbocho) December 9, 2024
宮沢賢治「注文の多い料理店」をモチーフとした店先のディスプレイ。猫の目、動いて見えるんです🐈https://t.co/1HW3gsNbzq
神保町の老舗画材店「文房堂」さんにてhttps://t.co/wMSRMoPop4 pic.twitter.com/45rOE38WSI