「鷹番」の地名は江戸時代、この地域の調査や鳥獣の乱獲禁止の監視を行なうなどの役割を担った「鷹番屋敷」が置かれたことに因んで付けられました。
江戸時代、江戸周辺の農村地帯には将軍家の鷹狩の場「御鷹場」が盛んにつくられていました。
鷹狩は「放鷹」といい、飼いならした鷹を山野に放ち、野鳥を捕らえさせたりする行事で、将軍が放鷹を行なう場所を「鷹場」と言いました。特に八代将軍吉宗公以降、江戸周辺五里(約20km)の範囲に設けられた「江戸廻り六筋御鷹場」を舞台に、鷹狩や遊猟が盛んに行なわれたといわれています。
目黒筋の御鷹場もその一つで、約16万坪に及ぶ原野だった「駒場野」や、野鴨が豊富な「碑文谷池(碑文谷公園弁天池)」などが鷹狩の好適地として利用され、鷹場組合や鳥見役所などが置かれました。
また鷹場の各所には「鷹番」を置いて役人を配し、浪人の身元調査や鷹場への立入りを禁じた高札(こうさつ)をたて見張らせていました。
現在の地名「鷹番」は、目黒筋の鷹番が居住していたところで、その高札も保存されています。
こうして、目黒区鷹番は目黒の歴史を伝える、数少ない地名の一つとして残されています。