立会川に架かる「涙橋」-鈴ヶ森刑場遺跡とは

旧東海道と国道15号線が合流する角の裏手に、鈴ヶ森刑場跡(品川区南大井2-5 )があります。
浅草の小塚原(こづかっぱら) (南千住 2-34)とならぶ、江戸時代の御仕置場で、1651年(慶安4年)に立合川(たちあいがわ)(浜川)の南に設けられました。
間口40間(70メートル)奥行き9間(16.2メートル)の仕置き場(処刑場)で、明治3年 に廃止されるまで磔や火あぶりなどの刑が執行されました。

鈴ヶ森処刑場遺跡の付近は、昔、江戸湾の海上遥か先に房総半島も望める佳景の地だったそうです。
『江戸名所図会』にも、遠くに白帆の船が浮かび、近くには海苔を採取する 『ひび』が立てられた江戸湾沿いの東海道を、大名行列が通行している鈴ヶ森 の風景を描いた挿絵が載っています。

実にのどかな感じのする景色ですが、処刑場の近くはこうはいかなかったようです。

昼間刑場付近には野犬が群れ、夜ともなれば、大の男でも通行するのがはばかられる雰囲気だったようです。
刑場の前の浜には一本の老松があり一本松の獄門場として恐れられました。
江戸時代は、10両盗めば死刑で、通常の死刑は、伝馬町で執行されましたが、獄門の場合は、獄内で打ち首の後、鈴ヶ森で3日間『さらし首』にされました。

また、磔(はりつけ)・火あぶりの場合は、市中引き回しの後、ここで処刑した といわれています。

・平井権八(ひらいごんぱち) (同僚殺し及び辻斬りによる強盗殺人)
・天一坊(てんいちぼう) (幕府乗っ
取りを企て)
・八百屋お七(放火)
・白木屋お駒(夫殺し)など
歌舞伎や講談に登場する人物もここで処刑されたといわれています。
刑場跡に建っている大教寺には、磔や火あぶりの台石が今でも残されています。刑場跡から旧東海道を北に行くと立会川(浜川)に架かる浜川橋があり、別名を 「涙橋」 といいます。
鈴ヶ森刑場に護送される罪人の肉親がこの橋まで見送って涙で別れるので、そう呼ばれるようになったと言います。

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