東京・神田の神田明神(千代田区外神田2-16-2)。
江戸っ子の守護神として親しまれています。
この明神様のご祭神は大己貴命という農業の神様になります、ここに大己貴命と合せて祀られているのが平将門です。
平将門は下総豊田・相馬(茨城県)を領した武将でしたが承平元年(931年)ごろから近隣を平定し、天慶2年(939年)には、下総、上総、常陸、下野、上野、武蔵、相模つまり現在の関東地方をことごとく勢力下に収め、腐敗しきった京都の朝廷に新秩序を作ろうと自ら「新皇」を名乗り関東で大反乱を起こしました。
しかし京都の朝廷も黙っておらず大討伐軍を天慶3年(940年)に関東に送りこみ将門軍と大激戦。
天慶3年3月14日、将門は平良盛と藤原秀郷(俵藤太)の奇襲をうけ馬上陣頭に戦って憤死しました。
享年三十八歳でした。
世にこれを天慶の乱と呼びます。
その首は京都に送られ三条河原にさらされましたが、3日後、白光を放って東方に飛び去り武蔵野国豊島郡柴崎村(大手町、神田近辺)に落ちたと言います。
すると大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになり、村びとは恐怖して塚を築いて埋葬しました。
それが、将門の首塚(千代田区大手町1-1-1)として今も語り継がれています。
その後もしばしば将門の怨霊が祟をなすため、徳治ニ年(1307年)時宗二祖なる真教上人は将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔碑を建て日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合せ祀ったので、ようやく将門の霊魂も鎮まり、この地の守護神になったそうです。
その後、天正18年(1590年)徳川家康が新城下町造りの中で、神田明神を「江戸総鎮守」として尊崇し、社殿を改めて大手町から外神田に移した際、首塚もあわせて移す予定でしたが、「私の首を動かすな、動かせぱ徳川家に末代まで崇る」と夢枕に現れ、首塚だけは移さなかったそうです。
また、明治の世になってからはこの場所には大蔵省があり、大正12年(1923年)の関東大震災でこの場所も被害に遭い、大蔵省の移転とともに将門の首塚も撤去されることになり、工事が始まりましたが、関係者の原因不明の事故や死亡が相次ぎ、撤去は中止されたと聞きます。