市谷船河原町(いちがやふなかわらまち)
徳川家康が江戸に城を築くまでは、外壕は無く、四谷方面から流れてくる 小さな川がつくる湿地帯だったようです。
ちょうどこの辺で幅広い池のような川になり、船の係留かしやすかった為、 船溜り船河原とついたと言われています。
また、この川は日本橋まで船が通っていたようで、その船の荷揚げ場所が 揚場町です。
市谷砂土原町 (いちがやさどはらちょう)
江戸時代初期、ここに本多正信(佐渡守)の別邸があったので、佐渡原と呼ばれていました。
その後、この本多邸跡の土を取り、田町などを埋め立てたので、土(砂土)取場 と呼び、 後に砂土原と字を変えるようになったようです。
市谷田町(いちがやたまち)
江戸初期の開拓で砂土原町の土を取って水田だったこの地を、埋め立てた事から田町と称したようです。
市谷鷹匠町 (いちがやたかじょうまち)
その名の通り、江戸時代に鷹匠(鷹使い役人)の組屋敷があったので名づけられました。
市谷長延寺町 (いちがやちょうえんじまち)
北の台地の西側に長延寺があったので名づけられました。
現在では廃寺となり跡地は都営長延寺アパートとなっています。
市谷左内町(いちがやさないちょう)
江戸時代に名主の島田佐内が開いたことから名づけられたと言われています。
はじめは坂上まで開発して町屋を作ったので坂町と言われていましたが、 その後佐内坂町となり、 坂を略して明治末に佐内町となったそうです。
市谷八幡町 (いちがやはちまんちょう)
1479年に太田道灌が鎌倉の鶴岡八幡を勧請(神仏の分霊を他の場所に移しまつること)して 江戸城西方の守護神として千代田区の番町に創建されました。
鶴岡八幡に対して亀岡八幡(鶴と亀)と呼ばれたこの神社は、 江戸時代徳川幕府の城普請に伴い番町が武家屋敷となる為、市谷に移り市谷八幡となりました。
また鳥居のそばには幕府公認の『時の鐘』があり 毎刻、江戸の町に時を知らせていたそうです。
市谷本村町 (いちがやほんむらちょう)
江戸時代以前に浪人島田主計等7人が開発したところで、最初は市谷本村と称していましたが、正徳3年(1713年)に市街地となり市谷本村町となりました。
台地一帯は明暦2年(1656年)に尾張藩二代徳川光友が上屋敷として拝領し、 琵琶湖を模して作られた楽々園と呼ばれた名庭園があったようです。
明治5年にこの尾張徳川邸と先手組屋敷跡が一つになりました。今の陸上自衛隊市谷駐屯地一帯になります。
市谷加賀町(いちがやかがちょう)
江戸時代に金沢藩前田光高の夫人の屋敷があったことから名づけられました。
夫人は水戸黄門頼房の娘であり、三代将軍家光の養女とされ、加賀少将光高に嫁いだのですが、30歳の若さで亡くなっています。その後加賀屋敷跡はみな武家地となっています。
市谷甲良町 (いちがやこうらちょう)
加賀町に住んでいた前田光高夫人の老女の栄順尼の拝領地でしたが、 その後幕府の作事方棟梁の甲良豊前に移り、甲良氏の屋敷地となり、この町名がつきました。
市谷柳町 (いちがややなぎちょう)
今の大久保通り北側は寛文(1661年~)以前にすでに町屋があり、 その頃は窪地の為、川田ヶ窪町と言われていました。
また、東側は養仙院の御侍鈴木清内が拝領したところで清内屋敷と言われていました。
明治4年にそれらが合併され市谷柳町となりました。
柳町の名前は柳が沢山生えていたとか言われますが、定かではありません。
市谷薬王寺町 (いちがややくおうじまち)
古くは幕府の萩原氏の屋敷であり、元禄の末に薬王寺に給したところであるが 、 薬王寺は明治維新時に移転し今はここにはありません。
市谷山伏町 (いちがややまぶしちょう)
市谷山伏町は、かつて林家(林羅山:1583-1657 江戸初期の儒学者。出生京都 名は信勝。法号は道春。
はじめ建仁寺に入り、のち藤原惺窩(せいか)に 朱子学を学ぶ。
1607年徳川家康に仕え、 以後四代の将軍の侍講。 上野忍ヶ岡に 建てた学問所・先聖殿はのちの昌平黌(しようへいこう)の起源となる。)の別邸があったところでだそうです。
約360㎡の敷地の中に、羅山をはじめ、代々の当主とその家族らの墓約80基が 残っています。
これらの墓石の中の四基は、儒葬と呼ばれる儒教の礼式に従った埋葬様式で、 門柱のような石柱を墓石の前に立て、 後方には木を植えるという極めて珍しい 形態の墓となっているそうです。
市谷仲之町 (いちがやなかのちょう)
本村町の尾張徳川家の上屋敷と、フジテレビのあった河田町にも尾張徳川邸があり、 その中間に位置するので仲ノ町と言われたそうです。
市谷台町 (いちがやだいまち)・住吉町(すみよしちょう)
大正11年に市谷谷町から分かれて出来た町だそうです。
市谷台町は谷町に 対して台地に開けていたことからこの名になったようです。
住吉町は当初そのまま市谷谷町でしたが、谷が重なると間違われやすいし印象が暗いということで、 昭和27年に町名を変更しました。
「住みよいように」と言うのが由来だそうです。