目黒権之助坂は今から300年ほど昔、中目黒村田道の名主、菅沼権之助が村人達の利便や交通のためにと、細く急な坂道の横に新しく広い坂を作ったことに はじまります。
それまでの道路は江戸市中から白金を通り、行人坂を下って太鼓橋を渡り 大鳥神社の前にぬけていたそうです。
この道が余りにも急坂で、回り道をしなくてはならなかった為、権之助が現在 の権之助坂を開き、当時この坂を新坂、目黒川にかかる橋を新橋と呼んでいたようです。
しかし、権之助は幕府の許可なしに作ったため、罪に問われ死罪となってしまいました。
人々は彼を偲び、いつしかその坂を彼の名前で呼ぶようになったそうです。
また一説では、村人の為に、年貢米の取立てをゆるめてもらおうと訴え出るが、その行為がかえって罪に問われてしまった(直訴と言って当時では重罪)とも言われています。
なんとか助けてほしいと言う村人の願いも聞き入れられず、権之助は刑に処せられることになり、当時新坂と呼ばれていたこの坂の上から、生まれ育った 我が家を振り返り、刑場に引かれて行ったそうです。
権之助の村に尽くした功績をたたえて、最後に振り返ったこの坂を「権之助坂」 と呼ぶようになりました。
権之助坂
目黒区目黒1丁目・品川区上大崎2丁目