高円寺阿波踊りは、昭和32年(1957年)8月13日、現在の高円寺パル商店街の二代目たちによる青年会「ボンボン倶楽部」発足が始まりになります。
当時から既に、隣駅の阿佐ヶ谷では七夕祭り(昭和29年より開催)が盛況で、その開催日には、高円寺は閑古鳥が鳴いていたそうです。
そこで高円寺でも何か催しをという声が出て、氷川神社の祭礼が8月27・28日に あり、それにあわせて何か独自のお祭をしようと言う事になったそうです。
しかし、当時は広い道路や広場もなく、盆踊りや神輿は出せませんでした。
ではなにをするか。その集まりの中に唯一、阿波踊りを知っている者(見た事はない)がいて、「阿波踊りという祭りは、踊りながら街を練り歩くらしい。
おれたちもそれをやろう」という声に、簡単に決定してしまったそうです。
その名も「高円寺ばか踊り」。
第1回は男女合せて38人、本番のおはやしはチンドン屋に頼み、 演奏されたのは「佐渡おけさ」のリズムだったそうです。
しかし、知らぬが仏でこれが阿波踊りのようなものと信じていました。
そして、高円寺駅(駅南口)から宝橋(桃園川緑道との交差店)までの約250mを 踊るというより走り抜けたのだそうです。
第2回目は、観客5千名を集めましたが、観客のほとんどが地元の人達だったので、売上げは思う様に伸びませんでした。
お祭りの参加者からは、「経費もかかる、時間をとられる、そして何より恥ずかしい」と 第3回目の準備段階でそんな声があがり、 一時廃止の動きもあっ たのですが、昭和34年(1959年)青年部における無記名の投票により継続が決定 し、存続の危機を乗り越えました。
第3回目は約2万人、第4回4万人、第5回8万人と、回を重ねるごとに観客動員数を増やしていき、各メディアにも取り上げられる大きなイベントとして育って いきました。
しかし、踊りの内容は相変わらず「ばか踊り」で、阿波踊りとはほど遠いものでした。
そこで深川の木場にある徳島県人会の「木場連」の本場阿波踊りの指導を受け 、きびしい練習の結果、第7回目にしてやっと「高円寺ばか踊り」から 「高円寺阿波踊り」へと改名し、本場阿波踊りに近い形が整いました。
その後も積み立て貯金をし、「阿波踊り留学」や本場阿波踊りを8mmに納め、 研究を重ねて、阿波踊りへの情熱を高めていったようです。
昭和32年当時、参加者38名観客2千人からスタートした阿波踊りも、平成12年には、参加連70連、7千人の踊り手と120万人の観客動員に成長しています。
これからも、高円寺で南国ムードの明るいお祭りを見て行きたいですね。