古くは江戸以前、四谷から内藤新宿にかけての一帯はすすき原で、潮の満ち干きの影響もあったことから、潮踏の里(しおふみのさと)、あるいは潮干の里(しおほしのさと)、よつやの原(よつやのはら)などと呼ばれる人家のない荒野でした。
江戸時代に入ると、江戸城の外堀整備にあたり、影響を受けた社寺群は四谷地域に集団移転。
また警護のための城門(見附)が設けられ、さらに甲州道中が整備されると、街道沿いにあった四谷の様相は一変することに。
寺院の周辺には門前町屋が軒を並べ、商人職人の活動が栄え、旗本屋敷が集中するなど、郊外地区から一気に都市部へと変貌をとげていきました。
明治5年(1872年)、武家屋敷や与力・旗本の集っていた「右馬殿横町」と「右京殿町」をあわせた「四谷右京町」、大番組屋敷が集っていた表大番町・裏大番町をあわせた「四谷大番町」が制定されました。
大番とは江戸幕府の職名で、旗本により編制され、戦時は本陣を固める精兵となり、平時は交代で江戸城および大坂城・京都二条城の警固をする役割りを持っている武士のこと。
江戸時代は同じ職務で集団をつくって住んでいたため、役職名や特徴がそのまま地名として使われることが多かったのです。
明治11年(1878年)千駄ヶ谷大番町を四谷区に編入し、同24年(1891年)四谷大番町に吸収。
昭和18年(1943年)四谷大番町と四谷右京町を併せ、一文字づつとって「大京町」が誕生しました。
大京町は新宿区の南部に位置します。
地域北部は新宿区四谷四丁目、東部は新宿区左門町と新宿区信濃町に接しています。
南部はJR中央線の線路に接しこれを境に新宿区霞ヶ丘町・渋谷区千駄ヶ谷に、西部はおおむね外苑西通りに接し、これを境に新宿区内藤町に接します。
地域の西部沿いに外苑西通りが通っています。
また地域北端に接してはいないものの新宿通りも至近。
幹線道路沿いは各種ビルが立ち並んでいるのですが、道路から離れると住宅地という特徴があります。