現在の目黒雅叙園(がじょえん)の場所にはかつて明王院(みょうおういん)というお寺がありました。
明治初期にすぐ隣の大円寺(目黒区下目黒1-8-5)に吸収合併されましたが、そこには西運(さいうん)という僧がいました。
彼は、目黒不動尊と浅草観音へ日参一万日の念仏行を行いました。
往復約十里(約四十km)の道を鉦(かね)を叩き念仏を唱え、満願まで実に二十七年余りの苦行でしたが、この修行中に市民から受けた浄財(寄付金)で、彼は行人坂(ぎょうにんざか)に石畳を敷き、 坂下に流れる目黒川の両岸に石壁を築いて頑丈な橋をも架けました。
当時江戸府内から目黒不動への往復は、急峻で泥道の行人坂を通らなくてはなりませんでした。
目黒川の橋も粗末な造りで流されやすく、西運はこの二つの悩みを解消させました。
江戸市民のために尽くした西運にはこんな言い伝えもあります。
江戸の町に大火を出して処刑された八百屋お七の恋人、寺小姓の吉三郎の後身とされています。
お七は以前火事にあって一家がお寺に避難した折り、寺小姓の吉三郎と出会い恋をします。
やがて一家は再建された家に戻りますが、男のことが忘れられません。
その思いがつのって、 もう一度火事が起きたら会えるかも知れないと思い、放火をしたと伝えられています。
放火の罪でお七が処刑された後、吉三郎はその菩提を弔うため諸国を巡拝し、江戸に戻ってからも過酷な修行を続けたと言われています。
また別の説ではお七の放火はただのボヤだったとも、本当の恋人は佐兵衛で、そそのかしたのが、吉三郎だったとかたくさんの説があるようです。
ただ、上人と崇められた西運という徳の高い僧が実在したことは確かだそうです。