目次
自由が丘の誕生:教育革命の足跡
大正デモクラシーと教育の変革
大正時代、日本に民主主義的・自由主義的な潮流が押し寄せました。この波は教育界にも及び、従来の画一的な教育に代わる新しい教育観が生まれました。子供の個性を尊重し、自主性を育む「自由教育」の考えが芽生え始めたのです。手塚岸衛と自由教育論
この時代に登場したのが、教育者の手塚岸衛(てづかきしえ)でした。千葉師範附属小学校を経て大多喜中学校の校長となった手塚は、「自由教育論」を提唱しました。彼は「子ども自らが、自らの力を出して自己を開拓して進む力をつけてやるのが教育である」と主張し、試験や通知表の廃止、自由学習時間の特設など、当時としては画期的な教育方法を実践しました。企画展「#千葉市誕生」資料紹介㉛ 写真「千葉県師範学校附属小学校 職員」
— 千葉市立郷土博物館 (@chibashikyodo) November 22, 2021
1925年2月11日、当時の起元節に撮影された職員の集合写真です。前列右から3人目の磯貝校長以下、全職員が正装で撮影に臨んでいます。
手塚岸衛は校長の隣、前列左から3人目に写っています。【前】#千葉市立郷土博物館 pic.twitter.com/WZOEeu1A6y
街の誕生と自由ヶ丘学園の設立
駅名の変更と街の発展
同年、東横線が開通し、最初は「九品仏」駅として誕生しました。その後、1929年10月(昭和4年)に大井町線が開通すると、隣接する住民からの申し出により駅名が「自由ヶ丘」に改称されました。興味深いことに、九品仏駅の利用者の大半が「自由ヶ丘学園」の生徒だったそうです。この駅名の変更が、現在の自由が丘という街の名前の起源となったのです。
挫折と再挑戦
しかし、手塚の革新的な教育方法は様々な問題を引き起こしました。上級学校受験生の全員不合格や、現代の校内暴力を彷彿とさせる事件の発生により、手塚は責任を取って辞職することになりました。しかし、彼の教育への情熱は冷めることなく、1927年(昭和2年)に「自由ヶ丘学園」を創設します。自由が丘の発展と教育理念の継承
手塚岸衛の遺志
手塚岸衛は、その後も教育に情熱を注ぎ続けましたが、資金繰りの困難さや生徒管理の難しさに直面し、失意のうちに病没してしまいました。しかし、彼の教育に対する信念は消えることなく、現在の「自由ヶ丘学園高等学校」(自由が丘2-21-1)に受け継がれています。展示見に来た自由が丘の熊野神社に参拝した
— アキノリ将軍未満/ネオ幕府アキノリ党 (@ACINOLI_III) April 10, 2023
自由が丘は元は谷畑(やはた)で、手塚岸衛という大正デモクラシーの教育者の理念をうけて改名したらしい
画一的な教育を批判して「子ども自らが、自らの力を出して自己を開拓して進む力をつけてやるのが教育である」とした
なるほどな pic.twitter.com/jL95QIzO7A
現代の自由が丘
昭和40年、駅名の「自由ヶ丘」の「ヶ」が「が」に変わり、地名も現在の自由が丘に変更されました。今日、自由が丘はおしゃれなショッピング街と閑静な住宅街が共存する人気の街として知られています。しかし、その名前の由来には、教育改革を目指した一人の教育者の夢と情熱が込められているのです。>> 自由が丘周辺の不動産(一戸建て・マンション・土地・事業用物件)を探す